法曹養成制度検討会議を筆頭に、法科大学院をめぐり相も変わらず堂々巡りの議論が繰りひろげられている。その最中、そのような議論をはるか眼下に見下ろす瞠目すべき論考が発表された。未だ寡聞にして知らぬものは、万難を排して読むべきである。その論考は、東京大学教授でローマ法が専門の木庭顕氏による「法科大学院をめぐる論議に見られる若干の混乱について」と題された小論である。東京大学出版会の機関誌たる『UP』2013年2月号に発表された。論考は「法科大学院という制度を支持する立場に立ち」「この制度を補強するという目的」をもつ。ここでは、その論考から引用しよう。いったん引用してしまうと全文引用したい誘惑に駆られる魅惑的な論考である。

それは「法科大学院という制度は、生まれ落ちた時から、誰からも自分の子ではないと認知を拒まれる、はたまた望んだ子ではないと冷遇される、気の毒な子である。」との諧謔にみちた言明にはじまる。そして「初め7-8割が合格するという謳い文句であった、であるのに法科大学院が乱立した、教育および卒業者の質と共に合格率が下がり、志願者が減り、社会的に攻撃された、という因果連鎖を想定する説の当否には触れない。したがって、法科大学院の数を減らし、この因果連鎖を切る、という案についても触れない。こうした混迷とお粗末があったとしても、それ以前に重要な問題が存すると考えるからである。」として従来の議論の次元との訣別を宣言する(なお法曹養成制度検討会議はこの次元の論議に終始した)。

そして以下のように問題の本質を剔出する。「多くの人々の意識から抜け落ちていった出発点は、法科大学院制度が、単に法曹養成や司法改革の一環であるのみならず、高等教育の大きな転換という脈絡にのっている、ということである。この転換は世界大のものである。」「少なくとも、研究者になる少数エリートにだけ関わるのではない、高度な大学院教育が必要とされ、そこから新しい量と質の高度な労働力が供給されなければならない、ということが感じられ、それを養成する方向に世界の現実が1990年代から動いた、ということは事実である。」

「高等教育の大きな転換」とは何か。論考にはこれについて具体的な言及はない。これについては、ブルジョアリベラリズムが全世界的に崩壊し、グローバルな市場経済の世界掌握力が高まっていく中で、公共財(あるいは共有財)としての知の継受の場をどのように形成していくか、という抵抗の文脈、すなわち「知のコモンズ」の問題が語られるべきということなのだという者もある。木庭氏が10年ほど前に本論考と同じ東京大学出版会の機関誌たる『UP』に公表した論考では以下のような説明がある。「法科大学院自体世界大の大きな脈絡に立つ。つまり90年代から各国は一斉に高等教育を充実させ、高度の能力を持った人材を分厚く形成しようとし始めた。大学院そしてその先のレヴェルで複数の専門を立体的にマスターした人材が要求されるのである。(中略)法科大学院といえどもこの流れから取り残されれば時代遅れのものとなる」(「法科大学院と実定法学」『UP』375号2004年)。この10年前の法科大学院の設立当初から全くぶれない木庭氏の一貫した視座は驚嘆に値しよう。そして木庭氏の予言のとおり法科大学院は完全に時代遅れの遺物・廃墟となったのである。この法科大学院の廃墟化の消息は以下のとおりである。「ところが、実際には法科大学院には今もって法曹養成の脈絡しか与えられていない。問題がここでは二重になる。というのは、日本の司法が全然世界基準でない、というからスタートしたはずだった。高等教育の転換と司法の転換が一体となるはずであった。しかしこの二重の課題がどちらもクリアされなかった。そして、それを論理的に封ずるが如く、卒業者が既存の法曹世界にどれだけ適合できるか、という評価基準しか流通しなかった。否、それ以前である。何故ならば資格試験適合は独特の世界で、現実の法曹世界適合をさえ意味しない。法科大学院の教育の内容は、前者、良くて後者、をターゲットとするもので、かつそちらへますますシフトしていった。曲がりなりにも国際世界に開かれているビジネスロー教育でさえ、最初のうちこそ華々しかったものの、経済情勢の変化も有り、すっかり萎えてしまった。以上のような視点で、制度がうまく行っていない、弁護士の需要を過大評価した、などと言ったとしても初めから前提を取り違えている。既存法曹は自分たちが変わっていないのであるからこれを言う資格がなく、他方法科大学院側も元来の理念通りの人材を育成したのでないから、既存法曹に向かってこれを言えない。」

「高等教育の転換と司法の転換が一体となるはずであった。しかしこの二重の課題がどちらもクリアされなかった。」との言明の意味は限りなく重い。当初、司法改革と法科大学院はたしかに一体のものであった。しかし、パラダイムシフトへの志向が忘却されるとともに問題が矮小化されてしまったのである。そして法科大学院は司法試験合格率によって序列化されることになった。法科大学院の評価基準も結局は司法試験合格率が基準となった。司法試験合格率が評価の基準であれば、従来の旧司法試験制度と何も変化はない。法科大学院の当初の存在意義は消滅せざるをえない。問題の本質は忘却の彼方に消え去ってしまった。論考は以下のように続く。

「世界標準は、しかし単なる理念で、日本たる田舎では絵に描いた餅ではないか。少なくともこの取るに足りない観測点から見る限り、そうではない。少なくとも今や企業は大きな経営判断に際して法的判断を随伴させなければ一歩も進めなくなっている。企業買収その他信用の調達や後始末がその典型である。きちんとしたスキームを作ることが出来なければ事業の努力も水の泡である。そういう場面で能力を発揮する人材が足りない。大手弁護士事務所の能力でさえ限られていると言われる。そもそも案件は中国、インド、ブラジル等々に関わる。すると、日本のプロも、日本の法科大学院教育も、役に立たないということになる。完全に袋小路の日本の資格試験知識はもちろん、日本の司法界の知力も役に立たない。処方箋の無いところでクリアなスキームを与えうる能力を培養しているかどうか。」「世界標準は単に理念であるのでなく、実需である。世界で普通にやっていることである(その質に問題があるとしても)。かくして、「新司法試験合格者の質が云々」と問われたときに、法科大学院側は、「すみません、そちらに向けては教育してませんから」とにべもなく返すことができるのでなくてはならない。反対に、「もう少し企業や官庁が採用してくれれば」とこちらが言うときに、「でもそういう教育はしてないじゃないですか」と切り返されるようではおしまいである。こういうミスマッチ、ないしボタンの掛け違い、が問題の核心である。」とする。その後も、行論は続くがここでは割愛する。

昨今、政府がTPPへの交渉参加を表明した。木庭教授が述べる「世界標準は単に理念であるのでなく、実需である。」との言明に、日本の法曹もじきに曝されるであろう。なお、傍論であるが、ある「ヨンダイ」(四大法律事務所)のパートナー弁護士はかつてわたしにこう言った。TPPによってアメリカの弁護士にとって日本市場が開かれることにより弁護士間の競争は激化するだろう。しかし、なおも残る最大の非関税障壁がある。それはなにか。それは日本語である。裁判所は日本語で運用されることに変化はないであろう。この非関税障壁の壁は限りなく高いと。

また昨今公表された法曹養成制度検討会議・中間的取りまとめ(案)においては、司法試験合格者数年3000人計画は実質的に撤回された。木庭教授が述べる「世界標準は単に理念であるのでなく、実需である。」との言明からすれば、当局が「世界標準」を諦め、「日本標準」の「実需」に合わせた帰結である。

木庭教授の論考へは、それは最高学府である東京大学を基準とした卓越主義以外の何物でもない、「企業買収その他信用の調達や後始末」こそ従来の業務そのものであり、またそれが減少しているのが問題ではないか、「処方箋の無いところでクリアなスキームを与えうる能力」は法曹そのものが担うべき能力なのか等の批判がありうるだろう。そしてそれらの批判はまた、この論考が法科大学院の可能性の中心を抉り出していることの証左ともなろう。

終わりに、論考の最後のことばをひいておく。「学生たちが実務家になったとしてもラテン語を読み続けるようにするためには、まずは本郷に進んでも読み続けているということが無ければならないだろう。もちろんその前提として、われわれが高度なレヴェルでラテン語を講じえなければならない(「ラテン語」は、もちろん、物の喩えである)。」これから真に法科大学院について語ろうとする者は、この論考の視座を少なからず前提としなければいけなくなるだろうことは確かであろう。

弁護士 倉地智広(第一東京弁護士会)